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永田勘右衛門(圓水)と久昌寺・三昧堂檀林


 永田圓水の系譜

 永田家はもとは甲斐武田信玄の家臣にて、勝頼没後、小牧山小田原等への陣にて軍功があった。また金鉄の採取の術と水利に通じ、
甲斐伊豆駿府常陸上総等諸国にてその業に勤める。慶長元和大阪の役等には攻城の術を施すという技術者の系統であった。
 その後、武士を止め、その後甲州黒川(甲州市塩山上萩原)に居住し、金砂の許容を蒙り、朱印を得て、採掘をする。。
 寛永年中、永田茂右衛門は、常陸に至り、町屋村に居し、金砂の産所を探るようになる。ただ禁制の事業にて、一般には知られて
いない業種であった。かくて、茂右衛門と長男勘右衛門は、こうした事業の一般的理解がないことから、大子村小久慈の金山を許可無く採掘として、
禁獄となる。獄中当常陸の地には水源の乏しきを憂い、用水の工夫をするようになる。これにより四方に堰を創ることが生まれる。
 初代茂右衛門 二代長男勘右衛門圓水、勘右衛門には二子あって、長男勘右衛門・次男八郎兵衛をもうけ、
勘右衛門は薬谷村に隠居、樫村(富岡村)の本家を八郎兵衛が相続したと言う。(常陸国北郡里程間数之記 壱))


 圓水と久昌寺三昧堂檀林

久昌寺開創当時、久昌寺には生活用水がなかったようである。広大なる久昌寺施設を維持する水源がなかったのである。
ここに圓水は、稲木の久昌寺へ水利を計画し、天神林稲木両村より寄樋をもって水利を造るのである。また三昧堂檀林も同じく水利
がなかったため、ここにも笠原山より引水し渠を造り、水を得たのである。
 こうした功績から、永田勘右衛門は、徳川光圀より圓水の二字を賜り、久昌寺の檀家に命じられたと記録にはある。
そもそも久昌寺は水戸徳川家二代藩主光圀の生母の菩提寺である。水戸藩藩主縁故の人達も,
久昌寺三昧堂檀林の学匠達も、久昌寺脇の宮ヶ作に墓地をもっていたが、
久昌寺に関わる功績者を「檀家」として迎え入れることは、永田勘右衛門に留まらず、光圀と交流し、
こうした事例は、久昌寺に関与した家臣に見られる特例的状況がいくつもあったのである。