今月の一言
久しぶりの家族旅行。五年生の美佳ちゃんと三年生の真くんは楽しそう。
「アワビの踊り焼きが食べられるんだって」
「それって何?」
「まっ、行ってからのお楽しみ」
水族館を見学し、旅館に着いて、温泉に入り、待ちに待った夕食の時間。
海の幸のごちそうに目を奪われて、箸が進む中で、しばらくして、アワビの踊り焼きが始まった。
小さなコンロの上に活きたアワビをのせ、丸焼きにするこの料理、火で焼かれている姿がまるで
アワビが踊りを踊っているように見えるところからの呼び名らしい。
踊り焼きを見た真くん、急に大声で叫びだした。
「何だよ、これ!アワビが苦しがっているじゃないか」
アワビの動きに楽しそうなお父さんとお母さんを見て、真くんの怒りは頂点に達した。
「みんな、これを見て平気なの?可哀想で見ていられないよ。こんなとこに泊まれない。早く帰ろう!」
さて、お父さんお母さん美佳ちゃんの気持ちと、真くんの気持ち、人間としてどちらを大切にしますか。
九十七歳の高齢の母親が亡くなった。その子供も七十歳を過ぎている。高齢者が送る葬儀である。 孫・曾孫達はいるが、どうしてよいかわからない。悲しみをどう表現したらよいのかがわからないのだ。葬儀屋に依頼して、それなりの弔いをしてみた。それとて、どこでどう悲しんでよいのかわからない。お寺にお経を誦げてもらった。お通夜と告別のお経である。何を考えたらよいのか、何を思い浮かべたらよいのか。その時間だけが過ぎていく。自分がどう悲しいのか、わからないから、弔問・会葬をしてくれる人の気持ちもわからず、ただ荼毘に付してお墓に納めることしか、浮かばない。
よって、家族だけの葬儀で終わった。遺骨を抱えて、帰途についた。親の死から得るものがない。
数日して、近所の人達が、「亡くなられた……」と聞きつけて訪ねてきた。時折、一人、二人と。いつ来るのかわからない人を待つ日々が続いた。何もできない。
迷惑な弔問客から、やたらと生前の話がでた。みんな、亡き人と交流ができたことに感謝して、参ってくれた。
その時、急に悲しみがこみ上げてきた。絆・触れあいから生まれる感謝に出会った。これが死からの教えだと。遺骨を抱いて、親に謝った。悲しみを持つことの大切さに触れた。
豊かさが悲しみの持ち方すら、忘れさせてしまった。これでよいのか。