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久昌寺を支えた高僧学匠




久昌寺養珠院久昌院墓所


久昌寺が創建されるに至る、それへと導いた人々の始めは、徳川家康の側室、養珠院夫人(お万の方)
でした。お万の方は、父方の千葉県勝浦の地と、母方の神奈川県小田原の地とで育てられました。
時代の事情と地理的関係で、お万の方を取り巻く数奇な運命に、処世の術を磨き、その拠り所として、
身延の心性院日遠に心を委ねました。


それに対し、お万の方が尽くしたことは、心性院日遠が願っていることに応えることでした。教えと信仰を
通して、心の糧を得たお万の方は、心性院日遠に自分の生涯を捧げたといってもよいでしょう。そのくらい、
心性院日遠との出会いはお万の方にとって大きな存在でした。

徳川家康との間にもうけた長男頼宣が、慶長8年(1603年)11月水戸徳川家に移るや、水戸郊外千波に
本法寺を創建します。そして次男頼房が水戸藩主になるや、久慈郡太田に蓮華寺(現在の久昌寺の地)
を創建し、心性院日遠を開山とします。これもお万の方にとって、我が子の心の拠り所を創ることの大切さを
教えるものでした。


水戸に関係したお万の方は、水戸藩儒者浦井宗府(頼宣の重臣水野土佐守の一族)の子息(次男・三男・末弟)を
心性院日遠と関係させ出家をさせます。後の智見院日暹・立正院日揚・通心院日境でした。


智見院日暹は、寛永4年(1627)、心性院日遠の師寂照院日乾が京都に鷹ヶ峰檀林を創設するや、
開講の初祖となり、翌5年(1628)には身延26世に晋董します。

立正院日揚は、当時小西檀林9世化主より鷹ヶ峰檀林化主日暹の後を受け、化主となり、鷹ヶ峰檀林は
日揚により、整備は整うことになります。

通心院日境は、身延27世、中村檀林化主、精貞法類、境師法縁、玉沢法類の祖となります。
いずれも、当時の教団に大きな足跡を残した学匠ばかりでした。


つづく

石 川 教 道 述