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現在の新宿町の久昌寺の前身・蓮華寺

ちなみに、現在の久昌寺がある新宿町は、元来は蓮華寺があった地でした。

明治になり、蓮華寺と合併して、現在の久昌寺になったということです。
蓮華寺は、養珠院夫人(徳川家康の側室)が頼宣(徳川家康の十男 養珠院夫人の長男
紀州徳川家祖)の水戸藩時代、水戸千波に本法寺(玉沢末)を創建、頼房(十男徳川頼宣
「紀伊徳川家祖」 十一男徳川頼房「水戸徳川家祖」の母が養珠院夫人)が水戸藩主に
なるや、佐竹氏発生の地であり、佐竹氏の祈願寺大幢山金乘院勝軍寺を改宗し、
久慈郡太田村に蓮華寺を慶長19年(1614)に創建したのがはじまりであります。
家康の室養珠院夫人は、徳川御三家の二家の跡取りをもうけた人となります。

この時、蓮華寺の開山を心性院日遠上人とし、2世を了雲院日實上人として執務に当たらせ
ましたのが、身延山24世顕是院日要でした。このように家康の室養珠院夫人は、
徳川御三家の二家の跡取りを創り、その精神的支えを、身延山22世の心性院日遠上人に
求めたのであります。養珠院夫人と心性院日遠上人との関係は、これ以後も、日蓮宗の教勢に
多大の貢献を果たしたのです。

心性院日遠上人は、慶長4年(1599)28歳で飯高檀林第4世化主就位した高僧で、
その会下には、禪那院日忠・智見院日暹・顕是院日要・妙心院日奠・隆源院日筵等の高僧
があり、常陸の地には多くの貢献をしています。常陸の地というより、養珠院夫人・光圀公
への貢献というべきかもしれません。

① 智見院日暹上人は鷹峯・小西化主、本満寺11世・延山26世を歴任し、慶安元年5月に
  遷化しましたが、光圀公が7歳の時に本門大戒を授けております。つまり光圀公の師僧と
  なります。

② 顕是院日要上人は、中村9世、洛妙伝寺6世(在中法性院日勇は得度します)・小室妙法寺11世・
  延山24世(元和元年39歳)、元和9年(1623)7月5日48歳にて遷化します。
  常陸太田郷、蓮華寺を創建の時の企画者です。その証拠として、元和3年(1617)5月13日に、
  蓮華寺客殿建立の折、顕是院日要上人より、日實上人に授与された本尊1幅が、現に久昌寺に
  所蔵されていることからもうかがわれます。

③ 妙心院日奠上人は、中村9世、滝谷妙成寺世・延山28世、寛文7年(1667)10月13日67歳遷化。
  光圀公の生母久昌院夫人が寛文元年(1661)11月14日江戸水戸藩邸にて没した時の導師
  (奠師法縁祖)で、堀之内妙法寺・谷中瑞輪寺・金杉圓珠寺を式衆にて厳修、長男讃岐高松藩主
  松平頼重の請により、身延山丈六堂に墓所を建立することを許されています。
  さらに高松に久栄山広昌寺を寛文5年(1665)に創建、永代上人跡の寺格を允許されています。

④ 隆源院日筵上人は、小西11世・中村10世、玉沢妙法華寺19世・妙顕寺17世・寛文7年(1667)
  延山29世。養珠院夫人・加賀前田家壽福院夫人の多大の外護を受けるのです。
  久昌寺三昧堂檀林化主に就位して、発展をさせ中興といわれる勝光院日耀も、在任中に
  その会下に入っています。
  寛文12年(1672)、寂遠院日通に譲位。延宝7年(1679)谷中瑞輪寺にて遷化。一円院日脱に
  譲位遺言します。


⑤ 寂遠院日通上人は、元和元年(1615)京都に生まれます。見性院日顔についで、法性院日勇
  に師事します。明暦元年(1655)京都妙伝寺に瑞世。明暦2年山科檀林にて台乘を講じます。
  寛文元年(1661)京都葛野郡下山田に真如寺創建。鷹峯・飯高15世、寛文8年(1668)池上本門寺に
  瑞世・延山30世となります。師法性院日勇を仰ぎ、勇師法縁の縁祖となります。
  延宝5年(1677)、久昌寺開堂供養の導師で、久昌院心周日匀大姉17回忌の導師。延宝7年
  (1679)谷中瑞輪寺にて66歳遷化をします。


⑥ 隆源院日隆上人は、中村24世・本圀寺20世 貞享2年(1685)4月より貞享4年(1687)10月

  まで久昌寺三昧堂檀林化主に就任します。かくて元禄5年(1692)8月23日、靖定山妙法華院
  久昌寺へ入山します。入山式が行われた、初めての歴代で、勧請開山を禪那院日忠、
  執務開山を寂遠院日通、そして化導開山として久昌寺3世に晋董します。
  光圀公はこの時、京都本圀寺と両山一寺として、隆源院
隆を迎えました。この年9月5日、
  京都へ向かう日隆を、西山荘より2里離れた額田宿まで後追いをするように見送ります。
  かくして大僧正に任ぜられ、元禄11年(1698)3月5日遷化となります。

石 川 教 道 述