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久昌寺と三昧堂檀林


久昌寺の創建の目的は、生母久昌院の菩提供養であることを元に、「はしはしに伝え誤れるをば改め、闕けたるを
ば補いて、再び法灯を世に照らさん思召」によったもので、世間の富貴に流されない自主自立を第一としたところに
久昌寺律儀がありました。それに対し、水戸藩は、久昌寺の運営費は必要分支給するとする、藩公営の寺院を
約束したのでありました。
自主自立は、全国の寺院ばかりでなく、僧侶の人間教育にも及びました。自主自立の僧侶を育成することが、時代
を創ることになり、僧侶の資質を向上させることは社会の安寧を醸し出すことになるという、光圀の信念から、経済
的支援を約束された久昌寺は、さらに水戸檀林という学校の創建をさせることになっていきました。その檀林も、
自主自立を主とした学問の解放にあり、口伝相承・派閥偏向の他の檀林の風潮とは全く異なるものを求めていき
ました。

天和2年(1682)、僧徒育成のために、寂遠院日通の高弟で、飯高15世壽遠院日遵を化主、太田蓮華寺惠遠院日遙
を玄講主(江陵院)として、水戸檀林は、久昌寺三昧堂檀林として発足することになります。
貞享2年(1685)、隆源院日隆が、中村檀林24世化主から、三昧堂檀林3世化主に就任した時には、玄講主にも信解院
日従・善智院日好の学匠が赴任し、三昧堂檀林は新設ながら脚光を浴びることになります。

自主自立の三昧堂檀林は、魅力ある檀林として、多くの人材を常陸の地に招きましたが、組織を持たず、出世寺も、
縁故寺もなく、ただ学問を純粋に学ぶだけの檀林は、当時として、全国に類を見ない形態のものでした。よって、
各方面・各法縁から、分け隔てなく向かい入れる三昧堂檀林は、莫大の檀林生を収容することになるくらい、脚光を
浴びました。しかし、よいことばかりではありません。自由自主自立の檀林の精神は、ここを出た学僧達の受け入れ
先きを持たないという欠点をもっていました。ですから、ここをでた学僧達は、自分達を受入れてくれるような、高度
な能力が必須条件となっていました。

ちなみに、縁故寺を探すとすると、越後金津妙蓮寺(正和5年(1316年)摩訶一日印開山)一ヶ寺がありました。この寺院は
三昧堂檀林能化持と定められていたようですが、それもかつて、新発田藩主溝口侯によって廃寺になろうとしたのを、
光圀が奔走して存続せしめたという経緯をもつ、一般の寺院で、組織というほどのものではなかったのです。

石 川 教 道 述