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久昌寺創建後、光圀隠棲までの久昌寺


延宝5年(1677)、久昌寺は落慶し、久昌院夫人本願大姉の17回忌と合わせ奉行されることになります。
この時の久昌寺落慶式の導師の身延山30世寂遠院日通を、光圀は中興開山第2祖と奉載し、久昌寺の基礎の人材として
期待をしていました。しかし、時まもなく、延宝7年(1679)2月11日江戸谷中瑞輪寺にて遷化します。

光圀の落胆は想像出来るくらいでした。そこで再度、京都深草の元政院日政を招請するのですが、受諾は得られず、
元政院日政は、その懇請に対し、自らの弟子、慈忍・慈性を久昌寺に遣わし、その相談相手として、
久昌寺の護持を立案することになったのです。

元政院日政が、これほどの懇請に心を動かさなかったのは、日政に、生来の多病があったことが
その要因だったのでしょう。それに加えて、名聞を欲しない性格からでした。
元政院日政は久昌寺の竣工を待たず、若くして寛文8年(1668)遷化します。

元政院日政の弟子、慈忍・慈性は、師の3回忌を経て、常陸の地に身を置くことになります。
よって、この二人は、久昌寺の創建の当初から関わっていたと考えられます。
光圀は、この慈忍・慈性を、元政院日政の分身と考え、今後の久昌寺護持の確立のリーダーと期待していました。

しかし、慈忍、後の大中院日孝は、一円院日脱が、身延山31世の座に就くや、飯高檀林よりの関係から、
身延山西谷檀林に赴く希望を光圀に伝えたのでした。光圀にとって、内心釈然とせぬものがありましたが、
やむを得ず、了承したのでした。
一方慈性、後の皆如院日乘は、師元政院日政の自行を専らとした姿勢を自らの道とし、これ以後も光圀の側近
となって久昌寺の礎となることを誓うのでした。この決意に、光圀は大いに喜び、身延山一円院日脱に懇請し、
慈性の将来を鑑み、その付弟とさせたのでした。皆如院日乘の法号は、一円院日脱よりの授与によります。

光圀は、生涯をこの師と共にすべく、皆如院日乘を、久昌寺と西山荘の中間に、摩訶衍庵を建て、
久昌寺山務一切を統理させました。

この功績により、久昌寺寺観はみるみる整備され、常陸随一の精舎として、世人は尊称して「山の御寺」と呼ぶ
ようになったのでした。総門・中門(開会道場の掲額)・三門(菩薩閣の掲額)・位牌堂・聚石堂(祖師堂)
・經王寶殿・多寶塔・方丈・食堂・厨房・浴室・僧寮・鼓楼・鐘楼等に、摩訶衍庵塔頭十坊が創建され、それは壮大なる
殿堂でもあったのです。

石  川  教  道  述