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久昌寺の始まり(草創期)と水戸徳川家

光圀の生母谷久子は、兄頼重(讃岐高松藩松平家祖)と光圀を生む背景の心悩、自らの生い立ち・側室としての
人間関係等も手伝って、その苦悩からの自立を探求し、禅那院日忠に帰依し、水戸藩城下向井町(現在は神応寺
となっています)に経王寺を創建します。この經王寺が久昌寺の前身でもあります。自らも久昌院と号し、姑 養珠
院と共に、日蓮宗の学僧に多大の支援をしていきます。父頼房没(寛文元年(1661)7月)後、久子は、時を待たず
同年11月14日江戸水戸藩邸にて没します。

延山28世妙心院日奠を導師に密葬が行われ、経王寺に埋葬されます。光圀の兄、讃岐高松藩松平家藩祖頼重も、
寛文5年(1665)に、生母久昌院夫人のために、四国高松に久榮山広昌寺を創建し、また頼重は身延山に養珠院と
隣接して久昌院の墓碑を建立します。これに対して弟光圀は瑞龍山水戸徳川家墓所に父頼房と並列して生母久
昌院を改葬することになります。
頼房は生涯正室を迎えなかったこともありますが、側室久子を正室同様に接していたことからでしょうか。その思い
と光圀の生母に対する敬愛の情が、水戸徳川家歴代墓所であります瑞龍山への改葬へと、心を向けさせました。

かくて、光圀公が一大寺院の久昌寺建立に着手するのが、久昌院の13回忌に当たる延宝元年(1673)でした。その
目的は、「はしはしに伝え誤れるをば改め、闕けたるをば補いて、再び法灯を世に照らさん思召」によったもので、
新たに経王寶殿・多寶塔・聚石堂・菩薩閣・方丈・齋堂浴室・図堂・諸の大伽藍を総檜造りといいますから、費用は
莫大な額であったと推察されます。

その殿堂は5年の歳月をかけ、延宝5年(1677)、久昌院17回忌に落成することになります。殊にその費用は、水戸
藩史上で類を見ないくらいの費用をかけた唐風七堂伽藍の大殿堂でした。水戸藩史には、延宝5年(1677)、經王寺
を久慈郡稲木村に移し、靖定山禪那院久昌寺と改むと誌されています。

新たな久昌寺の出発に当たり、初代の住職とし、光圀が希望していたのは、京都深草の聖者、元政院日政でした。
水戸の經王寺を移して新たに久昌寺となるので、經王寺の住職は、久昌寺の住職になるのではなく、東茨城郡小
勝の修多羅寺(本門寺)に転任を命ぜられます。しかし、元政院日政は、深草を出ず、久昌寺の住職を固持しました。
面識もない元政院日政に、光圀はひたすらその人材を求めました。元政院日政は、自らの代わりとして、その門下
の慈性と慈忍を常陸に下向せしめ、光圀の側近の法友とさせたのであります。後の大中院日孝と皆如院日乘でした。


延宝5年(1677)、久昌寺の住職がいないまま、久昌寺は落慶し、久昌院夫人、本願大姉の17回忌は奉行されること
になります。同年11月3日、光圀は自ら筆力を労し、法華経1部・開結2経まで、檜板に書写し漆を塗り、表には中山
法華経寺の日蓮聖人の自筆を借り、名工に命じて筆墨の運行のままに書写させました。これが現在の義公廟に残
されています。

聚石堂の高祖日蓮の霊像は、池上本門寺より受け、名工にて彫刻させました。現在の久昌寺のお祖師様像です。
この時、本願大姉の墓所は、瑞龍山へ移されます。

導師には、身延山30世の寂遠院日通を招き、副導師には、岩本実相寺日進、常陸寺院参席のもと、11月14日正当
まで行われることになります。


 

石 川 教 道 述