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久昌寺というお寺について

今から三百四十年ほど前、久昌寺は創建されました。茨城県常陸太田市にある稲木という地の莫大な土地に、

七堂伽藍という、とてつもない多くの寺院建築施設を有して建てられた久昌寺は、水戸徳川第二代藩主の徳川

光圀、俗に言う水戸黄門光圀公が、生母の菩提供養のために建立したものでした。

それは、当時の水戸藩の財政を揺るがすくらいの費用をかけたものでした。

そんなことからか、江戸時代当時は、久昌寺が開創してまもなくから、日蓮宗の古刹、身延山久遠寺・池上本門

寺・中山法華経寺という、すでに四、五百年以上の歴史を持つ総本山大本山と同等の地位を持っていたのでした。

光圀公が発願して、五年をかけて大伽藍、久昌寺は姿をみせました。光圀公は生母の菩提供養に、さらにその

供養をする僧侶の育成にも携わり、久昌寺ができて六年後には久昌寺の門前の前の広大なる土地に、三昧堂

檀林(さんまいどうだんりん)という、今でいう僧侶の専門学校を創ったのです。その学校は、開檀林以来、常時

数百名の学僧が常住するほどの、大きな施設であり、そこを訪ねる人々は全国から、先生も生徒も馳せ参じたと

いうことです。交通機関もない当時としては、異例ともいえることでした。

これだけの人々が稲木の地を訪ね、そこで衣食を共にするのですから、当然施設ばかりでなく、生活必需の水・

食物・衣類・生活給水排水等の兼備がなくてはなりません。光圀公は、水を稲木の上流の天神林より水路を引き、

排水路を造り、食物・衣料の確保まで考えました。

ところが、そうした久昌寺でしたが、どうしたことか、
当初から住職はいませんでした。

まるで必要のないように住職がみあたりません。

確かに、この人なら、と見込んだ僧が見つかると、ありとあらゆるところから、まさに全国から、常陸の國に呼んで

いるのですから、住職は必要でなかったのかもしれませんが、それにしても日々の運営上の事務決定をする人は

絶対に必要であったはずです。

当時、久昌寺を訪れた人々は、身延山久遠寺の歴代、千葉県中山法華経寺の歴代、京都山科本圀寺の歴代という、

今でも総本山大本山の法主貫首でした。来山する人達は、当時の高僧ばかりであったのです。それだけでも、

水戸光圀公の影響の大きさがうかがわれます。

実は、当時水戸黄門公が隠居した西山荘と、稲木の久昌寺の間は小さな山を境にして、その中間に小さな庵があり

ました。摩訶衍庵(まかえんあん)と名付けられた庵で、そこに久昌寺を管理する人がいたのです。それも京都から

わざわざ訪れた高僧でした。光圀公とその高僧が久昌寺と三昧堂檀林を動かしていたのです。この二人の会話には、

当時の日蓮宗の全国の寺院が登場しているといっても過言ではありません。必要とされる人は、この常陸の国に情報

が伝わるようになっていたとも考えられるのです。今考えるとすごいことです。水戸黄門漫遊記が生まれたのも、水戸

光圀公の頭の中では、全国をもうすでに巡っていたのでした。それほどの高僧が目の前にいながら、光圀公は住職に

はしませんでした。光圀公縁故の近在の寺々には、住職を置いています。しかし久昌寺には住職は置きませんでした。

さて、住職のいない久昌寺は、広大なる土地と建物を有しながら、全国からの学僧達によって、江戸時代二百年を終え

ることになります。
その学僧を創ることが、生母の供養であるといわんばかりに……。

久昌寺と三昧堂檀林は、水戸徳川家の外護の上に成立していましたから、江戸時代から明治への時代と体制の転換は、

どうにもならなかったのでした。