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光圀没後、3代水戸藩主綱條(つなえだ)の努力

養珠院夫人・靖定夫人・光圀の置かれた苦悩の環境の理解は、次期藩主の綱條にも受け継がれ、
宗門への影ながらの貢献は多大のものとなりました。光圀が生前より影ながら努力していた、
身延山智寂院日省への賜紫も、綱條が光圀の遺志を継ぎ奔走し、元禄十四年(1701)5月に
法衣の賜紫が叶えられることになります。綱條はさらに、谷中瑞輪寺の改装、大中院日孝の
小湊誕生寺への入山、久昌寺境内に義公廟の創建、常陸市毛に無二亦寺の開創、
智寂院日省についての受戒等、宗門への貢献は多大のものでありました。さらに、光圀の十七回忌の
享保元年(1716)には、西山荘の傍らに慧日庵と号する寺院を創建し、久昌寺の奥の院とし、
開山に身延山33世遠沾院日亨を仰ぎ、西山荘の管理と光圀の菩提に擬したのであります。
慧日庵の初代住職は、皆如院日乘の弟子、五重院日妙(慈縁)があたったのでした。


 また、光圀の死去により、今まで表に出にくかった、儒臣・儒者達は、反仏教的な言動が強くなったのは、
想像に難くありません。しかし藩侯の菩提寺であったことから、光圀の死去後も久昌寺に対する敬虔なる姿勢は、
君臣へも受け継がれ、儒臣達の久昌寺に対する批難は避けられたが、卑劣な形での圧力はこれ以後も続くことに
なります。三昧堂檀林への攻撃は当然として、その活動へ微妙に影響していったといってよいでしょう。