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光圀の葬送

 西山荘で、当時の日蓮宗の高僧と晩年を過ごし、祖母養珠院夫人・生母靖定夫人の菩提と自身の後世を託し、
この世を去った光圀の葬儀は、水戸藩の儒者達によって、慣例の儒礼をもって行う段取りにて執行されます。
ここには、水戸藩側の慣例と久昌寺側の信仰的意図との複雑な折衝が見て取れます。かくて、光圀の心情
を充分にくみ取った葬儀を執り行うべく提案は、西山荘の側近にて当然として行われたことは想像に難く
ありません。しかし、水戸藩の慣例を曲げるわけにもいきません。
 光圀より家督を継いだ、頼重の子綱條(つなえだ)は、義父光圀の内心の信仰を熟知しておりますから、
当然として義父に応えるべく、強い周囲の反対を強引に退けることになります。その証拠として、綱條は、
その霊牌を「南無妙法蓮華經 権中納言 義公徳川光圀 神位」と、本圀寺二十一世尊明院日輝に染筆を
依頼します。光圀の心情を理解している綱條ですら佛・儒・神の三道を折衷した位牌を造らざるを得ない状況は、
当時の水戸藩の意向が如実に顕れているといえましょう。江戸時代の仏教が背負った、神・儒・佛の三道
の融合もここにみられたのです。
 かくて、水戸藩の名の下に、この位牌を掲げ、光圀の七七日忌に当たる元禄十四年一月十五日より
二十四日まで、光圀の追善法要の為、法華千部会執行を、綱條は藩内に命じたのでした。千部讀誦の僧は、
百十名で、一日一人一部、十日間で千部成満、残りの十名の百部は法界万霊供養に当てられました。導師は、
十五日京都本圀寺尊明院日輝、十六日茨城県築地妙光寺、十七日常陸太田市蓮華寺日乘、
十八日水戸千波本法寺、十九日尊明院日輝、二十日水戸見川妙雲寺、二十一日茨城県築地妙光寺、
二十二日常陸太田市蓮華寺、二十三日水戸千波本法寺、二十四日千部結願、説法初座常寂院日周、
後座禪智院日好、常陸国内にて七十名、飯高檀林より四十名、三昧堂檀林所化随宜出座と定められたのでした。
十日間の千部会には、水戸藩主綱條、その縁戚者(連枝)・水戸藩家臣等列席でのことであったのは、
当然のことでした。

つづく

石 川 教 道 述