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蓮華院(養珠院)夫人と久昌院夫人


蓮華院(養珠院)お萬の方・久昌院お久の方墓所


蓮華院夫人(徳川家康の側室、のちに養珠院と号す)の長子である長福丸(徳川家康十男徳川頼宣「紀州徳川家祖」)が、慶長8年(1603)11月、水戸の城主に任ぜられますと、母蓮華院夫人は、水戸千波に本法寺(玉沢末)を創建します。そして蓮華院夫人の次男鶴松(十一男徳川頼房「水戸徳川家祖」)が慶長14年(1609)、水戸藩主(数え年7才)になるや、母蓮華院夫人は、慶長19年(1614)、佐竹氏発生の地、祈願寺大幢山金乘院勝軍寺を改宗し、久慈郡太田村(若宮八幡社境内)に蓮華寺を創建します。つまり家康の室蓮華院夫人は、徳川御三家の二家、紀州徳川家と水戸徳川家の跡取りをもうけた人となります。
蓮華院夫人は、承応2年(1653)8月22日74才にて没しますが、山梨県身延山久遠寺の心性院日遠上人に帰依し、当時の日蓮宗に多大の貢献をし、徳川幕府を内面から支えた人でもありました。
また、その姿を見ていたのが、頼房の嫁久昌院夫人でした。ことに蓮華院夫人にとって、家臣三木夫妻を通じ、我が孫、頼重・光圀の二児を知り、それを我が子、頼宣・頼房と重ね、世に出さんと思われたでしょう。蓮華院夫人の意志を光圀の生母久昌院夫人は、影ながら学び、それが光圀を育てる源にもなっていました。広大な久昌寺建立の構想は祖母・母から得た智慧の大きさを物語っています。
久昌院夫人も大きな貢献をします。蓮華院夫人が、寛永度における不受不施義から惹起された身池対論にて、池上本門寺の命脈が尽きんとする中、幕閣に働きかけ、それを救済する手立てを作ったの対し、それに伴う影響から禅那院日忠を水戸に庇護しています。また、元禄年度の不受不施義の寺院弾圧に対する寺院の擁護・身延山の外護と支援(身延山日脱の賜紫・智寂院日省の身延就位等)をした光圀の行動には、生母久昌院夫人の示唆が見えない形で見て取れるのです。久昌院夫人は、寛文元年(1661年)10月病に生じ、11月14日、水戸藩小石川藩邸にて58歳にて没します。


石 川 教 道 述

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