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水戸光圀について

徳川光圀は、祖父は徳川家康、祖母は養珠院夫人。父は徳川頼房(家康の11男)、母は久昌院夫人
(靖定夫人 谷久子)のもと、寛永5年(1628)6月10日、その三男(頼重・亀丸(夭逝)・光圀)として、水戸城
下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で誕生します。
実は、兄頼重もそうでしたが、光圀が生まれることに、当時は好まれなかった事情があったようです。
母久子は、当時正式な側室ではなく、人間関係の複雑さから父頼房より堕胎を命じられてたようでした。
こうした事情を気遣って、家臣三木之次(ゆきつぐ)夫婦は、兄頼重を江戸の三木邸で、光圀を水戸の
三木邸で、密か出産をさせ、自ら養父母となって、日陰の身として育てることをします。
生むことのできない母、生まれて来れない頼重・光圀の心中には、これからの人生に、明るいものを見る
ことは困難でした。母久子は、この心情を誰にも言うことが出来ず、日々を送る中、ある時、姑、万(養珠院
夫人)と接し、これからの生きるヒントを得るのです。
「生きていれば、必ずこの苦しさから抜け出せる時もあろう。今は日影の身でも、いつかは太陽の日差しを
受ける時もあろう」と、今は忍ぶ日々を受け入れる教えがそこにはありました。それは、女として、すべてに
身を従える立場から、自らの力で生きる道を創り出すという、強さをもった生き方でした。後年、こうしたヒント
の元は日蓮という人間から得たものであることを姑養珠院より知らされることになります。
母久子は、自らも強く、そして二人の息子にも強さをもった人間に育て上げます。そのためには、心の支えが
必要でした。水戸に經王寺という寺院を建てたのは、その証でした。
こうした辛い過去を乗り越えるもとは、母久子ばかりでなく、頼重・光圀とそれを取り巻く人々に強い信仰を
教えることになります。
日影の身は、人間光圀を大きく育て、そのうち、水戸家の世継ぎにまで成長するのです。人間としての強さは、
姑養珠院・母久子をも強く、光圀をのし上げます。

寛永9年(1632年)、水戸城に入城。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川邸
に入り世子教育を受けるようになります。
こうした背景には、第3代将軍・徳川家光や英勝院(家康の側室 頼房の養母)の意向が反映されるような、
光圀を支える人々の強い力が見受けられるという見方もあります。かくて翌寛永11年(1634年)には英勝院に
伴われて江戸城で家光に拝謁しているのです。
寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改めます。


さて、光圀は、承応元年(1652年)、侍女・玉井弥智との間に男子(頼常)をもうけます。妻の弥智は出産前に
家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子、賴常は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育て
られます。
承応3年(1654年)、光圀は、前関白・近衛信尋の次女・尋子(泰姫)17歳と結婚をします。時に光圀は27歳で
あったとのことです。しかし、尋子は、明暦3年(1657)、江戸大火の時、小石川邸が類焼し、駒込の山荘に移り、
万治元年(1658年)10月頃から病床に臥し、同年閏12月23日、21歳の若さで逝去するのです。光圀との仲は
睦まじかったのですが、残念なことに子はいませんでした。尋子の死後、光圀は、この悲運を受け止め、
後添いを迎えることなく過ごしました。

明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を置き、『大日本史』の編纂に着手します(のち小石川に移し、彰考館と称しま
す)。

寛文元年(1661年)、水戸藩二代藩主となります。藩政改革に取り組み、種々の文化事業を興して明君と讃えられ
ました。延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改めます(光圀52歳)。しかし、五代将軍綱吉との意見の確執から、
元禄3年(1690)致仕を余儀なくされ、家督を頼重の子綱条(つなえだ)に譲って、久慈郡新宿村(今の常陸太田
市郊外)の西山荘に隠居することになります。

元禄3年(1690年)、権中納言に叙されます(中納言の唐名を「黄門」と言うため、後世、水戸黄門と通称されるよう
になった)。元禄9年(1696年)12月23日、亡妻尋子の命日に剃髪をし、余生を送ることになります。
同13年(1700年)12月6日(西暦1701年01月04日)、73歳にて薨去を迎えます。以後義公と謚されるのです。

常陸太田市瑞竜町の瑞龍山に儒式墓所があり、同市当久昌寺には義公廟があります。また水戸市常磐町の
常磐神社に祭神として祀られてもいます。

石 川 教 道 述