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水戸黄門光圀の死


光圀は古希の坂を超えて、肉体の衰えを訴えるようになった。元禄13年(1700)の夏、
   ほととぎす なれ(誰)も一人は淋しきを
             吾をも さそえ死出の山路に

今までの光圀には見られぬ、老少の弱さを側近の者達にもみせるようになっている。側近の者を始め、
西山荘から800メートルほど登った摩訶衍庵の皆如院日乘は心を痛めた。
同年5月23日、光圀は井上玄桐を使いとして、歌会を開く旨、日周と同道連れだって参席するよう、日乘のもと
へ招請があった。日周とは、当時の三昧堂檀林化主で、京都本圀寺歴代である。かくて同道して西山荘に赴
いたが、光圀は気分がすぐれず、侍医奥山立庵・日周・日乘も玄関にて待機していたが、光圀を案じ、時を
改めて歌会を開く旨を懇願した。しかし光圀は、それを押して歌会を始めたのである。
御題は「山家会友」・
「西山即興」、

山家会友の御歌
       世のうさを思いはてたる山里に
                              むかしを語る友ぞうらめし
西山即興の御歌
       西山や入るさの月のはかなくも
                               しばし宿かる庭の白露

光圀の心の不安が感じられ
る。これに対し、日周は、
                 谷の戸をとじにし雲の絶え間見ゆ
                              はれんも近し五月雨の空

と光圀の心を癒やし、日乗も、
                 分きぬるかひもありけり
                         山深く待ち得し友に会うぞ嬉しき

今の一会の貴重なることを「嬉しき」と結んでいる。
常寂院日周は、京都本圀寺を長く空けて居られず、三昧堂檀林化主の辞任を申し出ていたが、光圀は良友を
失うことを不安に感じて、これを引き留めていた。しかし辞意堅固なるを察し、光圀は禪智院日好に招待状を
出すのである。時、元禄13年(1700)7月初旬であった。

6月10日は、光圀の誕生日であった。これが最後の誕生日になるとは、誰しも知るよしはない。当日、例年の
如く、祝祈祷のため、日乗等の僧衆は西山荘に参集した。
忠師の御本尊を掲げ、誦経。光圀は道服にて参列。焼香・ご祈祷、祈祷札と共に京都より取り寄せた本満寺
の病即消滅の本尊を光圀に手渡した。光圀の気色は平穏のもように対し、参集者は愁眉を開いた。
9月、禪智院日好が、三昧堂檀林に赴任してきた。しかし光圀の容体は芳しくなく、死期を間近にしていた。
10月13日、禪智院日好が、日乗の請いで、太田蓮華寺(今の久昌寺の地)にて説法中、光圀の脈は絶えたり
と報が伝えられた。日乗日記によると、
「大君の御不例の事重く、御脈絶えたる由、申し来る。江戸、水戸への飛脚は櫛の歯をひくが如し。むね
ふたがりて物おぼへねど、西山へ足をそらにして、たどりゆく。今少し先より御脈も出たるよし。先には
何方もくらく御目も見え給はずありしに、今は御目も見ゆるよし。『とくしん湯』・『しんぷ湯』御用ある也。
しるしある事なり。典膳(西山付家老 大森典膳)より御祈祷のこと申来る間、則ち御請申す」
と、どうしたことか、奇跡的に光圀の様態は小康状態に
なり、17日には西山荘より水戸表へ出かけるまで
になる。11月14日は光圀の生母久昌院夫人の祥月であり、例年の如く、本願大姉会が執行され
た。

この年は、光圀の病気見舞いのため、幕府より許可を得て、水戸藩主綱條は帰国していたので、光圀に
代わって法会に参列することになり、国中の末寺・各寺院、江戸末寺として、身延山より譲られた、本所
猿江の慈眼寺、京都本圀寺より付せられた駒込大乗寺も参列することになった。
光圀は平戸才兵衛を使いとして、明日は病のため、法会に参列し難きを伝えたが、この度は藩公参列
される旨にて、寺院席次を定め、将来の規範とすることを指示していた。
本法寺・妙雲寺・大乗寺・了法寺・修多羅寺・慈眼寺・妙蓮寺・宝塔寺・曼荼羅寺・蓮性寺・惠雲寺・
常寂光寺・妙光寺は、客座とした。
光圀は、14日法要が終わった巳の刻、道服姿にて、井上玄桐・朝比奈平次を供に、久昌寺に來詣し、
焼香し点茶(抹茶を点て)し、日乘に、
「今日は到底参詣なるまじきと思いしに、斯く来たり得て心うれし」と語った。
久昌寺創建の折、京都深草山より派遣された大中院日孝、皆如院日乘の二人の内、日乘は良き道友として、
光圀の側近に在ったが、日孝は光圀の慰留をも謝辞し、その志望であった、本化教学の大成と宗門興隆
のためにその側を離れ、両者とも心ならずとも、二十年に亘り、会うこともなかった。日乘は、
光圀のもとで、静の中に本化の行学を見出し、日孝は動の中に宗門教勢の振起を促した。

しかし、この年元禄13年(1700)、日孝は、飯高檀林化主に赴任の途次、道を曲げて、西山に来訪し、
延宝の年、離別をした、日孝・日乘・光圀の三者は、西山の庵に膝を交えたが、これが永劫の訣別となった。

大中院日孝も、巨星として揺るぎない地位に在った。十数年振りに光圀と久潤の情を温めたが、わずか
月余りにて光圀の死に会い、その追善の説法を勤むることになったのである。 元禄13年(1700)、12月6日、
光圀は目を閉じた。

石 川 教 道 述